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ベルリンから人生敗者復活戦。

ワーキングホリデーの失敗談を綴る。その失敗の過程と、失敗から出直す、敗者復活戦の過程も勝手に配信する。

ベルリナーレで映画鑑賞「今日観た映画の中で一番良かった!」と賞賛された日本映画「三つの光」日本映画が海外でこそ評価されるのは何故だろうか。

Berlinale 2017 映画が好きすぎる。

ベルリナーレで映画鑑賞「三つの光」

まだ予告編がyoutubeとかでは公開されていないのですが、ベルリナーレ公式サイトのプログラムにて映画のワンシーンが公開されています。映画の中でも象徴的なワンシーンを観てみると、この映画の持つ危うさと不気味さが分かるかと思います。

www.berlinale.de


舞台挨拶時の質疑応答で質問に手を挙げた一般観客より「今日は朝から沢山映画を観て回って、つまらない映画も多くて本当に疲れ切ってからこの劇場に来たんだけど、今日観た映画の中で一番素晴らしかったよ。まず、賞賛したい。」と言われていました。本当に観客皆で拍手しましたよ。

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今日の会場もベルリン動物園近くのDelphi Fimlpalast。なかなか雰囲気のある会場です。

「痛くて脆い繊細さ」と、「強烈な自我」を気持ち悪いぐらいに見せつけてくれるストーリー。

ストーリーはすごく単調で「夜な夜なガレージのようなスタジオで音楽を作り続けているマサキとK。作業はマサキが中心に行っているが、口だけは立派で横暴なK。二人だけでの音楽製作では先が無いからと、Kに押される形でマサキは知り合い女性のミチコと、その友人のアオイをメンバーに迎える。」という流れです。それぞれに打ちに秘めた葛藤や苦しみが合って、音楽製作で自己を解き放つにつれて、内面の葛藤も表面化していく、というストーリーでした。

斬新なキャスティングと脚本の作り方。新時代の日本人監督だからこそ作れた映画だったのかもしれない。

上映後の舞台挨拶でもお話しされていましたが、今回の映画は全てワークショップにてキャストを選出し、キャストと一緒にストーリーを練り上げて行った、とのこと。大体のストーリーの枠組みは監督が作ったようですが、そのストーリーも「キャストを選んでからそのキャストの性質を生かすストーリーを考えて行った」という、「作りたい映画のキャラクターに合う人を選ぶ」のではなく、「一緒に映画を作りたい俳優を選んでから、その俳優でストーリーを作る」という、結構ビックリな順番で製作されたようです。

何度も俳優さんと対話を重ね、役者さんの性質を把握されていたからでしょうか、怖いぐらい役者さんの性質がそのまま映画に反映されていて、上映後の舞台挨拶でメインキャストの役者さん4名が壇上に上がったときは「え?まだ演技しているの?」と思うほど、役者さんの立ち姿なり話し方まで映画の中の印象と同じだったのです。精神的に弱い役柄アオイを演じた女優さんなんて、ずーっと目線が下をむいているし、姿勢だってちょっと猫背で儚げ。一方シッカリ者のミチコを演じた女優さんはすごく綺麗な姿勢で堂々としています。友人と「演技かな?サービスしてくれているのかな?」と最初はざわついたのですが、監督さんの製作過程を伺って「それにしてもそのまんま過ぎるだろう。」と少し怖くなりました。自分の持っている性質をベースに最大限誇張したり変形させたりして映画に映し出されるって、役者さんってホンマに大変だなあと思いました。

ベルリナーレ、フォーラム部門ならでは!上映後の舞台挨拶と直接交わされる質疑応答の有り難さと面白みを噛み締めてきたよ!

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この映画、淡々とした作りになっているのに水面下での動きが激動で些細な演出に気づいて行かないと監督さんが伝えたかったことを上手く受け止められないのですね。だから上映後に「ちょっと、あそこどういう意味だったの?」と理解を深めて行きたい時に、作った人に直接聞けるという幸運と面白さ。実際に第一の質問が「最後のシーンはこういう意味を持っているのか?」と解釈にズレが無いかの確認でした。監督さんは「僕が言いたいことを代わりに説明してくれて有り難うございます。」との解答で、これはやっぱり観客的には自分の解釈が合っていたという、知的ゲーム的にちょっと嬉しくなってしまいますよね。

ここでのやり取りで本当にキャストの特徴がよく見えて面白かったなあ。

ミチコ役の女優さんは通訳の人への気遣いが素晴らしくて、ある程度話したら、一度訳す時間を与えたり、「もう少し話し続けて大丈夫ですか?」って感じに目線で伺ったり、気遣いの人ミチコって感じが出ていました。

逆にKは堂々と、前に前に出てくる。映画の演技でも「この演技で喰ってやろう」としている感がすごくあったし、この舞台挨拶でも監督の言葉を補足したり、通訳さんが「authenticy」を上手く解釈できず、「この映画では本物、ということがテーマにあったかと思いますが、どのような点で意識されていたのですか?」という質問を「各キャラクターの個性をどのように描こうとされていましたか?」と結構大きくズレて訳してしまった。おおー、ヤバイぞと思っていたら、Kがすぐに横にいた監督に「実際は本物って意味で、こういう意図の質問だったから。。。」と訂正して、フォローをしていた。実際にKが話すとかなり面白かったし、観客も直接話してくれた方がタイムラグがなくてすごく聴きやすかった。

Kが舞台挨拶でも目立ってしまって、監督さんがすこし印象が薄まってしまうぐらいだったけれども、製作過程を伺った後だったので、全然それで良いのだろうと思った。それを許容する、しかも無理なく自然に許容する監督さんだからすごいと思う。新しい時代の、日本らしい監督さんだ。和を大切に、他者と共存、むしろ上手に他者に乗っかっていっちゃう。この映画もオリジナルで無理やり嵌め込めるよりも、役者の個性をそのままキャラクター落とし込んだから、映画自体がドキュメンタリーのように、まさに本物になっていた。

むしろ、本物すぎて気持ち悪かったぐらいだった。無理矢理演出するよりも、素材を生かした方が良いって本当なんだな。ジャガイモで栗金団は「それっぽいものは」作れるけど、サツマイモで作った方が美味しいのは当たり前だ。

何故「良い映画」が「興行的にヒットする映画」とイコールではないのか。

映画好きが「良い映画」という映画は、もちろん良い映画に変わりはないのだけれども、映画好きの友達には勧めるけれども、あまり映画を観ない友人、もしくは映画好きでも人を選んで紹介する映画は多々ある。そしてこの映画はまさにそんな映画で、スゴく良い映画だったけれども二回は観ないし、万人にオススメする映画でもない。やはり万人にお勧め出来る映画は「エンターテイメント映画」であったり、「教育的」か、「感動的」でどこか王道のストーリーがあったりする。ディズニー映画の鉄則「ヒーローズ・ジャーニー」というストーリーテラーの鉄則のような映画の展開をしていく脚本は、演出や映像の力以上に、確実にその映画を万人受けする映画に仕上げてくれる。もちろん法則にのっとるだけで傑作が出来る訳ではないけれども、普通に映画を楽しむ為には話を追い易い、そんなストーリー展開が好まれるのは当然だと思う。

また万人受けする、というか誰もが誰とでも見やすい映画には何個かポイントがある。まず、鬱々とした要素がない。分かり易い「アルコール中毒」のキャラクターが出てきても問題は無いけれども、そのキャラクターがガチで救いようが無くて、酒の為に子供に売春とかを強要していたらかなりキツい。そして性描写が少ないこと。マニアックなプレイや、オーラルセックスや野外などのセックス描写が描かれると、キスシーンやベットでのセクシーなサービスショット的なセックスシーンよりもかなりハードルがキツく、親や付き合いたての恋人とは見辛くなる。そしてストーリーや映画のテーマが明確であること。「弱小の野球チームが新しい監督を迎えてリーグ戦で勝ち抜いて行く」とか、そのような誰でも映画の主旨やラストの感動を味わえるストーリーは万人から共感を得易い。もし、一瞬差し込まれた比喩的な表現から「ああ、実はこのような背景があるから主人公は自主性を失っていて、だからこそ夢を素直に追いかけることが出来ない葛藤があるのだな。」とか理解することが出来なければ、その映画のテーマが単純に「歌手になりたい若者の話」だけではなく「過去の負い目から実力を発揮出来なくなったシンガーが、葛藤を乗り越えて成功のキッカケを掴む」という「葛藤」という重要なテーマに気がつけなければ味わえないストーリーとかであったら、普段から映画をそのように見る癖が無い観客には「なんか、普通に歌手として成功しただけだったね。地味な映画だった。」という印象しか与えない。つまり、今日の映画も「映画好きの人が楽しむ映画」であって、はたして「一緒に映画観に行こうよ!」ってなった時に、選ばれる映画かと言うとそうではない映画だったと言いたいのです。

 

それでも万人に受けなくとも映画好きに評価される映画を作り続ける意味とは?

一観客の私が偉そうなことばかりを書くべきではないのですが、結論、映画は映画好きが映画好きに向けて作れば良いと思います。王道の映画が好きな映画好きももちろんいるでしょうし、そのように映画たる映画をつくる監督さんも俳優さんももちろんいると思います。また、映画好きを楽しませる要素を持たせながらも、映画を普通に楽しむ人も置き去りにはしない、二層にも三層にも深堀して行ける、「どこまで掘り下げれるかは、アナタ次第だよ?」みたいな映画をつくるスゴい監督もいると思います。興行的にも映画としての評価も勝ち取るのはこのタイプの監督さんなのかと思っております。で、映画好きじゃないと楽しめない映画って、何なのだってことですよね。でもさ、普通に映画見る人って年間で何度映画館に足を運びますか?3ヶ月に1回映画を観に行って、年間で4回でしょう?TSUTAYAでレンタルはしても、dvdまで買って揃える人ってどれだけいますか?映画館に行ったり、dvdを買ったりするのって、やっぱり思い入れがある観客だと思うんです。それって映画好きの人達ですよね。だから、映画好きに支持される映画も監督さんも俳優さんも、やっぱりものすごく意義があると思うんです。だから今日の映画もものすごく意義がある映画だと言いたいんです。

 

日本映画が海外でこそ評価されるのは何故だろうか?

まずはひとえに、海外でこそ評価される、ということは乱暴に言えば「日本映画らしい繊細な表現がある映画」だからだと思うんです。ハリウッド並みにドッカンドッカン!爆発させたり、カーチェイスを繰り広げる映画を作ったって、日本の映画界の予算と映画撮影の規模、また映画撮影のし易さから考えても、どーせハリウッドぐらいの派手さは難しいし、そんな映画をあまり日本映画には求めていない気がする。もちろん工夫を凝らしてすごく面白いアクション映画とかもありますけれども、わざわざ日本映画で見るかっていったらそうじゃない。日本映画で見たり、評価されているのってやっぱり「繊細なストーリーと役者の繊細な演技」とかそのような高度な表現力に底力があるからだと思うんです。もちろん例外もあるのでしょうが。で、その繊細な表現って海外の映画好きな人は理解してくれるし、その上その「ささやかな繊細な表現の裏に隠された意味合いを汲み取る」というとても知的な遊びを楽しませてくれるので、知的欲求が満たされて観賞後の満足感が出る、という訳分からんところでエンターテイメントになっていると思うのです、私は。そして日本人自体が何故繊細すぎる表現を好まないかと言うと、同族嫌悪って言葉が当てはまると思います。直接的なコミュニケーションをとり、言いたいことをぶちまけて、感情のままに手が出る、そんな情熱的なお国柄の人から見たら繊細さって興味深いかもしれないけれども、(ましてやそんな国で繊細さに気づける感度の高い繊細な方には嬉しい同族意識に帰するかもしれないけれども)勘が良すぎる日本人には「あ、これ私だ」ってすごく嫌な物を見せられた気分にもなるんですよね。流し忘れたウンコを便器でみちゃうみたいな。自分を卑下する考え方が根底にあるから、映画の中で多少なりとも誇張して描かれている人間の弱さやエグさを、自分にも見てしまう。この奥ゆかしさが仇となってすんなりと映画としての表現を楽しめない、そして切り離して鑑賞出来ない。日本人が繊細な映画に出会い、またネガティブな方向で自己を投影してしまった時、日本人であるが故の特製で日本映画を味わいにくくしてしまうことがあると思うのです。今日の映画もその部類ではないかな、と思いました。私には終始「気持ち悪い人間ばっかりだな。」と嫌悪感がつきまといました。分かり易い気持ち悪いキャラクターもいましたが、登場人物全てにどこが気持ち悪かったか羅列出来るぐらい総じて全員が薄ら気持ち悪かったです。ハッキリ言いたいことを言え!行動しろ!それをしないキャラクターに嫌悪を覚えました。そして、今日の映画にはその嫌悪感を常に現して傍若無人に振る舞うキャラクターが出てきたんです、Kという名で。ものすごく面白かったですね。ものすごい「日本!」な中に、逆をいくキャラクターをぶち込む、というストーリーの面白さ。ここが監督さんが描きたい部分であったと思うし、まただからこそ日本社会に生きる人々が「普段如何に本音を晒すこと無く抑制していきているか」を如実に描き出していたと思うんです。まあ、この自由すぎるKにすら私は嫌悪を感じましたけども。(私は末期だな!)反動が強すぎて逆をいくオレ!みたいなキャラクターが「コイツ、邪道の自分に酔っている」とも思えたんですね。深読みしすぎると監督のテーマを素直に受け取れなくなる現象です。ともかく、繊細な日本映画が海外でこそ評価されるのは、同族嫌悪を感じること無く映画そのものを映画好きならではの知的好奇心を刺激する形で楽しませてくれるから、という結論に達しました。季語や返歌など、繊細な和歌の文化を持っていた日本人ならではの、高度な映画作りといっても良いのではないか、とすら思うのです。(ちょっとハッキリと断言出来ないけれども。)

 

ネタバレあり!何故「三つの光」が海外の観客の知的好奇心を充分に刺激し得れたのか?

まず映画好きは「この映画はあの映画に似ているな」という分析をよくします、少なくとも私はめっちゃします。今回の映画を過去の映画で評したならば「Fight Club × Frank 」でした。いきなりネタバレですが、この映画の主人公の男性は静と動のような対照的な二人組に見えて実は同一人物であるという、まさにFight Clubのようなストーリーが繰り広げられます。二重人格的に作り出した「自分の欲求を体現する人物」として、本人の押さえ込んでいる欲求がKという人物の形をなして傍若無人に振る舞いながらも主人公の望みを形にして行く、このキーポイントが映画に緊張感を与えながらも、観客を惹き付けるのです。更に私はこの映画は名優マイケル・ファスベンダーが、あの超絶に整ったご尊顔を晒さない!終始かぶり物をしたまま撮影した「Frank」という音楽映画にも似ていると思いました。この映画でのテーマとして「Authentic(本物であること)」が描かれていましたが、 才能もカリスマも無いのに「Authentic」を目指しているという痛さが、「Frank」で感じた痛さの数倍感じられたからです。

既に見たことのある映画と今回の映画を比較したり、またはこの映画が持つ独自性、そのような相違を見つけ出したり、色々と味合わせてくれる映画だったので、観賞後の満足感が高い映画でした。頭を使わずに誰もが楽しめる映画が「エンターテインメント」ならば、頭をフルで使い、全身全霊を持って映画を理解しようとかかる映画が「映画好きが最も満足感を得る映画」だと思います。

実際に最後の質疑応答でも「僕の解釈に間違いはないか?」という確認のような、監督の意思を汲み取ろうとした知的ゲームの答え合わせのような質問も出ていました。もし時間があれば、私も「二重人格映画の傑作Fight Clubは意識していたのか。その場合、どのような点で日本らしさ、またこの映画のオリジナル性をだそうと考えていたのか?」と質問したかったです。この「過去の映画を彷彿とさせながらも日本映画としての独自性を持っている映画」こそ、海外の観客を引きつけ、評価されるのだと思いました。

 

日本版のFight Club:ブラピ並みのカリスマ性はなくとも「飼いならせるギリギリの理性で産み出している自分を凌駕してくれる自分」とその行動で突き破って行く「日本社会では許されない行動」と「その行動の結果」を描いた、二番煎じではないキチンとした日本映画。

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いくらFight Clubに似ているストーリー展開と言っても完全にファイトクラブではありません。キーポイントとなる食材は同じでも、調味料は味噌と醤油。食卓にだって伊万里焼きの器に入れて出しちゃうような、ともかく日本臭がはっきりしている映画でした。全然「みたことあるわー」というガッカリ感は無い。

この映画、途中までは「相反する二人がコンビ組んでるのねー」と観客は見ていても、「あれ?段々おかしくないか?」と気づいてくる訳です。Kはいつも同じ服を着ているし、行動があまりにも傍若無人、その割には周囲の人があまり反応を返していないんです。そして車の持ち主であるはずの主人公が車を運転せず、主導権を握ることになる運転席にKが乗り込んで女性二人を家まで送り届けるとき、観客は違和感を覚えると思うのです。その後間をあけず、映画の結構序盤にもかかわらず監督は一瞬の映り込みで「あ、やっぱりあの場にいたのはKではなく本人だったんだな」と察しの良い観客と答え合わせをするのです。

映画の途中で映画のテーマや仕掛けに気づけるほど知的好奇心が刺激されることは無いですから、あとは「あ〜、今の表現はこう言う意味合いを含んでいるのかな?」と自分なりに更なる分析を加えながら鑑賞できるのですね。この映画では二重人格で作り出された別人格であると予想されるKは、主人公が調子がいいときは画面上にあらわれず、明らかに調子が悪いときにKの人格がメインで物語を動かして行き、その時は主人公が画面上に登場しないこともしばしばでした。Fight Clubのように最後にネタバラし大々的にするかと思えば、「そんなことしなくても分かってくれるでしょう?」という姿勢で、ラストは観客への最大限の投げかけを持って終了しています。

Fight Clubとの違いとして「欲望を体現する存在」が主人公のみに存在していたのに対し、この映画では関わって行く周囲の人の欲望も吸収し始め、Kという存在は周囲の人の行動にまで影響を与えて行く、という部分でした。また日本社会に生きる人々の「本音でコミュニケ—シュンが取れない」という日本社会独特の抑圧された状態が常に現されていたので、ただ殴ってスッキリ!カリスマいっぱいの男になれた!みたいなFight Clubほどのアクションや爽快感はなく、ゆっくり欲望が表面に出てくる、じわ〜とした気持ち悪さもある、例えるならば虫が孵化するような、あのような薄い皮が破れるような解放でした。主演女優さんも話していましたが「普通の人にとっては何でも無いことでも、このキャラクターにとっては大きな変化だった」ということ。日本社会で本音をいうということが、いかに抑圧されているのか、という社会構造も描いていました。一個人の問題ではないのです。

 

日本版のFrank: 「世に埋もれている才能の無さと強烈な自意識」を自信満々に曝け出す「Frank」と遠慮しながらも滲みだしてくる「三つの光」

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先にマイケル・ファスベンダー主演の「Frank」について触れましたが、この映画をもう少し説明すると、この映画は「可哀相なぐらい才能が無い適当なミュージシャン(気取りの)バンドに、ひょんなことから凡人である主人公が加わるが、唯一多少のカリスマ性を持っているFrankという男に強く惹かれる中で、主人公はこのバンドをネット上で拡散し、有名にしようと行動します。その行為によってバンドは知名度を得ることにもなりますが、同時にバンド自体に亀裂が入ることにもなり。。。」というストーリーです。甘いマスクのマイケル・ファスベンダーがバカみたいなデカ頭のかぶり物をしたまま演じたというだけで一見の価値がありますが、この映画私には「え〜?」ってぐらいに「なんだよそれ!」って思わされました。めっちゃ才能ないんですよ。でもすっごい自信満々にミュージシャン達がふるまうから、主人公の凡人は彼らが本物だと思ってしまうのですね。自意識過剰に音楽活動をして、実力とかはさておき自信満々!というちょっとした痛さがある映画なんです。でも自分を卑下する態度が無い分すごく気持ちがいいぐらいに「痛いな〜」と思わせてくれる映画なんです。

でも「三つの光」は登場人物達が一応の慎み深さを持っていて、ましてや「オレは才能があります!」なんてK以外は口にはしない。でもどこかしら「自分は特別な存在ではないか」と思う気持ちがある、それが透けて見える。その「私は、ちゃんとわきまえていますから。」という自衛のような予防線を先に張り巡らしながらも、Kの影響に乗っかって「出て行けるならば出てみたい」という自意識を出してくる。この「ハッキリ言わない」感じ、これが「気持ちが悪い自意識」で見ていても笑える感じも無いから「ものすごく痛い」と感じました。自意識を滲みだしてくる、と最初に書いていますが、この「察して欲しい」という姿勢、私個人としてものすごく苦手なんですけど、とっても日本ぽいですよね。ここが多分同族嫌悪になっちゃって、特にその傾向が強い女性陣のキャラクターには主体性の無さに一切共感も同情も感じ得なかったです。そこが無理で日本から出てきちゃった口なので。でもその分、日本らしさをめちゃくちゃ表現していたし、監督自身も「日本社会では本音を言うことが良しとされていないので」と質疑応答で観客に伝えようとしていたように、この映画でも重要な要素として描かれていたのだと思います。

 

この映画は「ベルリン国際映画祭正式出品作品」というラベルでどこまで広がって行けるのであろうか?

ぜひぜひ見て欲しいけれども、私だって二回は見ない映画です。疲れるし、もう、一回見ただけで充分胃もたれしちゃっていますから。「もう一回カッコいいブラピがみたい〜」とか思う爽快感があるFight Clubとは違うなあと思います。でも、この映画私の周りだけの反応だとすごく良かったんですよ!隣のドイツ人夫婦も「この映画のチケットが取れるかすごく焦っていて、会議室からこっそりスマホの小さい画面で苦戦しながら取ったの!」と言っていたし、イタリア人の友人も「面白い映画だった〜」と「先日のEl Barはまさにエンターテインメントだけども、映画として見るなら格段にこっちのほうが見応えがあるわ〜」と言っていました。拍手喝采とか、スタンディングオベーションとかそういう評価のされ方は無かったかもしれないけども、観賞後の満足感にみちたりてスッゴくお腹いっぱいになっていた観客が多かった気がします。劇場の雰囲気がリラックスできる空間とシートだったことも大きいかもしれないけれども。日本人としてみるには私同様に「同族嫌悪」とか感じて気持ち悪いと思うかもしれないけども、今まさに「抑圧された状態にある」のであれば、より繊細にこの映画を見ることが出来て、Fight Clubでは届かない憧れであったブラピでも、この映画のKであれば何らかの「届く限りの限界に手を伸ばす」感覚を感じることが出来るかもしれません。

 

池田良(いけだ りょう)と言う役者さんを覚えておきたい。

最後に、この映画の重要な役Kを演じられた池田良さん。この方は英語で言う「He was iachy to coming out!」という印象で、もう世の中に、世界に出て行きたくてウズウズしているというような役者さんでした。英語も凄く堪能で、投げキッスをした桐谷健太みたいに、観客とコミュニケーションをとろうとする姿勢が全面にあって、ものすごく応援したくなる俳優さんでした。独自の考えや個性が強そうで、そのままで活躍し続けて頂きたいです。すっごくパワーに溢れていらっしゃったので、今度は全く違う役柄でも見てみたいです。この人が出ているのであれば、その映画見ます。ハリウッドの「スティーブ・ブシェミ」みたいな癖の強い立ち位置になってもらいたいです。調べたら「恋人たち」という映画にも出ていらっしゃったそうな。昨年神戸のバーテンダーさんから「恋人たち、という映画が素晴らしいとの情報有り」というメッセージを頂いていたのを思い出しました。見とけば良かった〜

 

同じように女優マキ エミさんも今後の活躍が楽しみです。正統派の美人さんで、舞台でも堂々とされていて、「普通の人に見えるけれども内面では葛藤がある」という癖が強すぎるキャラクターに囲まれた中でも、押さえた表現で演技され、全うされていたのですごく上手い方だと思いました。この方も別の役柄で拝見したいです。

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右が マキ エミさん、左が池田良さん。

お二人には舞台挨拶後にサインを頂くことが出来ました。その際に少しお話しさせて頂けるチャンスも合ったのですが、マキ エミさん、もうとっても綺麗!大島優子さんみたいな綺麗な感じ。話し方も丁寧で、女性として憧れてしまうなあと思いました。

またKこと、池田良さんはたまたま劇場からロビーに出る道で一緒に歩いてお話し出来たのですが、もうめっちゃ良い人でした。「他にも沢山映画に出られているのですか?」と伺うと「今はまだあんまりかなー」とー言われていて「では今からの世界での活躍が本当に楽しみですね。」といえば「はい、お待ちください。」みたいな、言葉をへへへという笑顔と一緒に返してくれた。

※調べたらすでに今後もいくつかの映画に参加されるみたいです!※

2017年4月公開予定 奥田康介監督作品 「ろくでなし」

2018年公開予定 瀬々敬久監督作品 「菊とギロチン」

いいなー!見たい!これ見れる人がいたら是非感想教えてもらいたいです。

 

最後は「池田良さんのファンになりました。」的な文章で終わっていますけれども、書ききれないぐらいに脳みそを刺激してくれる、このような映画を鑑賞出来たこと。これこそがベルリナーレの醍醐味だなあと味をしめた夜でした。来年は日本映画だけではなくて、もっとヨーロッパの映画も見たいなあと思ったのでした。翌日に見た映画がルーマニアの「Ana, mon Amor」という映画なのですが、これみたいな映画を来年はもっと見ていきたいですね。では、次はルーマニア映画について書きます。